『嫌いじゃない』



「またね、か…」

チハヤは静かになった部屋で一人ポツリと呟く。その声はひとりきりの部屋に響くこともなく、何事もなく消えていった。
宙に浮かぶ、自分にしては不自然な手の位置に違和感を覚え、自分のものではないような気分でその手をみつめる。
自分が「またね」と返すのに少し上げられた右手。チハヤは自嘲気味な笑みをこぼした。

「前はこんなんじゃなかったはずなのになぁ…」

椅子にドカリと腰掛け、だらしない格好で天井を仰ぐ。
天井は引っ越してきた当初よりは荒んだ色合いになっていた。目を擦ってもその色が元に戻ることはない。

ぼく、いつからこんな人に馴れ馴れしくされても大丈夫な人間になったんだっけ?

その問のすぐあと、頭をよぎったのはの姿。
テーブルに顔を向けるとさっきがくれたオレンジジュースがおかれていて、誰もいないこの部屋に、の存在をはっきりと残している。



オレンジジュースの冷えたグラスを手元に引き寄せ、つと撫でる。
汗をかいたグラスの水玉が、指の腹を心地よく濡らしていった。

「―――

以前ぼくが人に向ける態度は、こんなんじゃなかった。

尊敬するユバにこそ丁寧な態度とってはいたが、どうでもいい人間にはとことん冷たく接してきた。
邪魔だと、煩わしいと思ったらそのままその感情を言葉にして相手に伝えた。
そうされた人間はその後は大抵あまり話しかけてこない。
人がわらわらと集まっている状況は、面倒だ。一人でいる方がどんなに楽か知れない。

(人は煩わしいんじゃなかったの?)
(いや、最近はそうでもないんだ。慣れたのかな。こんな土地にいたから。 )

(――――違う。 )

(あまり人がいないから人と関わることも減るだろうと考えていたが、こんな土地だからこそ、より近しく関わらなければならなかったのは事実じゃないか。 )

(―――そうじゃない。 )

(もっと肝心な、ぼくをここまで変えたのは… )



毎日飽きもせず、毎日どうでもいい話をしにくるが来てから、まだ一年も経っていないというのに。
どうやらぼくは、あの煩わしいお節介女のせいで、短期間にこんなにも変わってしまったらしい。

今のぼくは正直いって嫌いじゃない。
以前のぼくだったら、こんなぼくになるなんて想像もつかなかった。
人を煩わしく思わないぼくなんてありえないと思っていた。

は最初あったときから、ぼくの態度は最悪だったな。
なんだっけ…
「あんまり親しくない相手と話すのって疲れるんだよね…」 とかそんな感じだ。
毎日ひたすら本気でいっていた。なのにのやつはちっとも参らないで、毎日のように朝早くぼくの家まできて、欲しいと思っていた食材くれたり。

のことを思い出していると勝手に顔が緩んでしまう。チハヤは自分がそんな顔をしてることにムッとする。
自分にではなく、にだが。

(なんでなんかに、ぼくが笑わされなきゃならないんだ。 )

でも、いいか。とも思う。
自分ととのことを思い出していると楽しいことには違いないのだ。

(ぼくは、といるのが嫌いじゃない。 )

は、嫌いじゃない。 )

「今度ピクニックにでも誘ってあげようかな。」

オレンジのグラスに映るチハヤは、とても優しい顔をしてそう呟いた。



『嫌いじゃない―後日談―』


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