『碧く光る』



桟橋の先でいつものように釣り糸を垂らすと、今日も時間がゆっくりと流れ出す。

ふと、潮風が優しくタオの前髪を揺らして過ぎていった。くすぐったくて、額をぽりぽりとかく。

梅雨明け、気持ちよく晴れ上がった空は以前よりも青味を増し、点々と浮かぶ雲の白さがよく映えている。
もうすぐ夏も近いんだな、とタオは優し気な微笑みを浮かべて、180度眼前に広がる水平線をすっと眺めた。
海と空の境界となる水平線は、地球の丸みに沿って緩やかにカーブを描いている。
タオは水平線を左から右へゆっくりと目でなぞり、その下に広がる海を遠くから、手元で揺れる波間まで滑るように眺めていった。
波にふらふらと揺られる釣り糸。タオは水面下に思いを馳せる。

夏に近づくにつれて、きっと魚達は普段以上に気持ちよく泳ぎ回るのでしょうね。

ボーッと水面を眺めて、魚達が澄んだ海を泳ぎ回るようすを想像する。
その内、波の音も、風が前髪をさらさらと撫でていくのも気にならなくなった。
抵抗せず、すべて自然のなすがままに。

タオの存在がハモニカタウンの澄んだ蒼い空気に段々と包まれ、碧く、碧く、染まり透き通っていく。

「タオ」

凛としたの声が、今にもハモニカタウンに同化せんとするタオの存在を引き止めた。
さん、とその声に反応してタオが首を少し左に向けると、目の前には大きなカマキリ。
驚いて少し身を引くと、カマキリを頭にのせたがクスクスと笑っていた。

「カマキリ。ビックリした?」

「え、えぇ。そのカマキリ、どうしたんですか?」

「えへへ。来る途中で見つけたの。このすました感じが少しタオに似てるなと思って。」

は頭の上に乗せていたカマキリを、手に持っていた麦わら帽子の中に移して、タオの顔を覗き込むように小首を傾げた。

「タオ、消えそうだったね、今。」

「それはわたしの存在感が薄いって意味ですか?」

しかめっ面をしていうタオに、「違うよ」とは可笑しそうに笑った。

「消えるって言うより、空気に溶けちゃいそうな感じがしたの。一瞬、すごく儚く見えた。」

私にとってはあなたの方が、よっぽど儚く見える。心の中でだけそう思って、ひとつため息をついた。

「タオ?」

「なんでしょう?」

「私の目の前に、いるよね?」

真剣な眼差しでタオをじっと見つめるに、タオは困った、でも酷く優しげな表情をして首をかしげて答える。

「私はちゃんと、ここにいますよ。」

よかった、と微笑んで、は顔を海に向けた。タオもそれにならって海に体を向かせ、遠くを眺めた。
静かな時が再び流れる。だがが隣にいるというだけで、タオには他にはない特別な時間に感じられた。
の存在を隣に感じるだけで、心が安らぐ。

「タオ、少し座らない?」

「えぇ、いいですよ。」 

二人で桟橋の先に腰を下ろして、再び二人で海に目をやる。

「水平線って、なんだかタオの目に似てるね。」

それを聞いて、タオはクスッと笑った。
そうですか?と、聞き返すと「そうやって笑って目を細めると、更に似てるよ」と楽しげに返された。

「タオって海みたい。すごく広くて、なんでも受け入れてくれる気がする。」

そういうとはタオに寄りかかって、その肩に頬を乗せた。

「え…あの、、さん?」

タオはひどくうろたえたが、緊張しているために体は少しも動かない。
しばらくその状態が続くと、は更にタオに体を預けた。

「今日はなんか…ちょっと、疲れちゃった。ごめん、少し、このまま…」

は細切れに言葉をつむぎ、だんだん囁き声になっていったかと思うと、ついに寝息が規則的に聞こえるようになった。
呼吸に合わせての体が上下し、タオにその揺れが伝わっていく。

左肩に感じる、心地よい重み。

始めこそ緊張してこわばっていたタオの体も、いつの間にかほぐれ―――に、少し、体を寄せた。
は何もいわずに、すやすやと寝息を立て、呼吸を繰り返す。タオを心の底から信用しきっているように。
タオはごく自然にの方に首をもたせかけ、頬ずりをするように、少し顔を動かす。さらさらとした髪の感触を頬に感じる。
パズルピースのようにピタリとくっつくと、の香りが濃くなり、ふわりとタオの身までも包んでいく。

「良い匂い・・・それに、とても暖かい・・・ですね。」

ふふっとが笑うのを聞いて、タオは焦って顔を上げた。

「え…と、あの、そんなつもりでは…」

言い訳しようと焦るタオの肩ではクスクスと笑い、タオがしたような頬ずりを肩の上で繰り返した。

「あったかいね、タオ。」

そういって、はタオを見上げた。
うっすらと開かれたタオのまぶたの奥にある碧い瞳を、覗き見るように、目を細めて。

そんな風に名前を呼ばないでください。
そんな風に私を見つめないでください。

「そんな風に、されると…」

私は、どうかしてしまいそうです。

すぐにタオは恥ずかしさに耐え切れなくなり、頬を赤らめ、から顔をそらした。

再び寝息が聞こえてくる頃、の顔をチラリと覗くと、その向こうで帽子から逃げ出そうとしているカマキリが目に留まった。
海に落ちてはいけないと思ったタオは、を起こさないよう左手をそっと伸ばし、の腰に手を回すような格好でカマキリの逃げ道を塞ぐ。
垂らした釣り糸が魚に引かれて何度か水面を荒がせたが、やがて何事もなかったかのように、釣り糸は再び静かに波間を揺れ始めた。

空高く鳴くカモメの声。穏やかにさざめく波の音。
タオはその一部にでもなるような気持ちで、そっと息を潜ませる。
そう、できるならばと共に―――。

水面に反射した2人の姿を隠すように、海は波打ち、碧く光る。


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