『愛しき人よ』
神は悩んでいた。
自分ともあろうものが、まさかこんな感情を抱くなんて、誰に想像できよう。と。
神の座の中央に立ち、指先で小鳥と戯れながらも上の空で、神は自分の想いをまた確かめる。
もうこうやって何度確かめているかわからない。今日もまた、自分の変わらぬ想いを知る。
―我はヒカリを愛している。
長く生きてきた自分。なぜ今更、そしてあろうことか人間に過ぎた好意を抱くなんて。
多くの人間をみてきた。しかし、人間たちは皆どこか似たり寄ったりで、つまらなく、わが身可愛さに周りを省みないやつらばかりではないか。
もちろんそうじゃない人間も多少なりとはいる。その中で、ヒカリはとても特異な人間として神に一目置かれていた。
ヒカリが育てる酪農、農業製品はどれも一流の品になって生まれ、ヒカリはこの土地で生きる人、動物問わず好かれている。
ときたまヒカリをめぐり動物も人間も争うことがあるが、なぜかいつの間にか皆おとなくしなっている。
しかしすべてが完璧だと思われるが、そうでもない。
とびきりの美人というわけではないし、普段の行動は少々まぬけなところもある。失敗だってたくさんしている。しかし、何かに皆惹きつけられている。
神もまた―――
そんなヒカリを、いつしか愛しいと思うようになっていた。
彼女のひたむきで、人間ではありえないほどの純粋な心に惹かれていった。
―我までも、ヒカリの毒牙にやられたか。
苦く笑い、手を顎にあて考えこむ。毒牙というのも変な表現だが、あらかた間違ってはいない気がする。
ヒカリは人の形をとった毒蛇だったか?だとすれば、やっかいな、とんだ甘い毒をもった毒蛇もいたものだ。
やられてしまったからにはこの想いを変えることは簡単にはできない。
神はおとなしくこの気持ちと向き合うことにする。自分が今、どうしたいのか。
「神さま。どうなさったのですか、恐い顔をして。」
くすくすと鈴の鳴るような声で笑いながら、女神が神の前にふわりと現れる。
神は空をみつめていた険しい表情はそのままに、女神へと視線をずらす。
「…女神か。どうした。」
用があるならさっさと言えと言わんばかりに、居住まいを正し、切れ長の鋭い目で女神を睨む。
「空がざわついた気配をもっていたので、少し不安になってきてみたのですが…なんともないみたいですね。」
ゆるやかに辺りを伺うが、これといって何か悪いものがあるようには感じない。
女神は再び神に向き直り優しい笑顔を浮かべる。
「何か深い悩み事があるのですか?」
「…これといってない。あるとすれば、純粋な心の持ち主が見つからないことだけだ。」
神は依然変わらぬ調子で女神からふいっと視線を逸らす。
女神は優しく、しかし心の中を探るように、じーっと神の瞳をみる。
しばらく黙って空を見つめていた神だが、やがて居心地悪そうに再び視線を女神にむけた。
「…なんだ。用が済んだのなら帰れ。」
「ヒカリさんのことが気になっているのですね?」
「…なぜ、そんなくだらぬことを思う?」
眉を不審げによせる神を見て、女神は再びくすくすと笑う。
「顔に書いておいでですよ。」
「冗談を。…まったく、女神というのはやっかいな生き物だな。」
ため息を吐き、参ったというように片手を挙げる。
「あら、神さまでも恋の悩みにため息をつかれるのですね。」
「からかうな。我とて戸惑っているのだ。」
―この気持ちを、やはり恋と呼ぶのだな。
どうしたものか。
面白そうにくすくすと笑い続けていた女神だが、本当に困ったような表情をする神をみて、ふわりと優しい笑顔にもどる。
「神さまから何か贈り物を差し上げてはいかがですか?」
「我が、ヒカリに…か?」
「そうです。なにか彼女の喜ぶようなものを。」
「神が特定の者に何かを送るというのは不平等だろう。」
「そんな姿をなさっている以上、神さまも1人の男性です。神としてではなく、1人の男性として愛しい人に何かを送るなら、別に構わないでしょう。」
神はそれきり何か悩むように黙りこんでしまい、女神はどこか満足そうに微笑みながら姿を消した。
「ヒカリ、今日はお前に渡したいものがある。」
太陽が気持ちよく山頂を照らす午前11時。毎日のことであるが、呼んでもいないのに鉱山をわざわざ登ってやってきたヒカリにいきなりそう告げる。
「わぁっ、なんですか?」
ヒカリは顔を期待で輝かせながら神をじっと見つめる。
―まるで、純粋な子供のようだ。
神はふと笑みを零し、体の力をふっと抜く。
ヒカリの傍にいると、ひどく穏やかな気持ちになれる。
「近くへこい。」
そういうと、ヒカリはおとなしく言うことを聞いて、ぴょこぴょこと音がしそうな調子で神に近づく。
神の一歩前まで近付いたところで止まり、期待を込めた眼差しで顔を見上げる。
神はその愛しいヒカリの頭を撫でてやりたい気分になり途中まで手を上げかけたが、思い直してそのまま空へ高く上げ、指をパチンと鳴らす。
すると弾けるような音と共に、空中から輝く透明の黄色い小さな瓶が現れた。神はそれをヒカリに渡す。
「ローヤルゼリーだ。今朝蜜蜂達から届けられたばかりのものだから、美味いぞ。」
ヒカリは受け取った瓶の蓋を開けて、ちょろっと指先ですくって舐めてみる。
「美味しい…」
と語尾にハートがつきそうなほどうっとりと、表情をとろんとさせて静かに呟く。
「こんなに美味しいハチミツ初めてです。神さま、ありがとうございます!」
えへへ、と嬉しそうに笑って、大事にカバンの中にしまいこむ。
「こんなに美味しいの一人占めしちゃずるいから、みんなにもちょっとわけてきますね!」
言うが早いか、すぐに身を翻しヒカリは駆けていってしまう。
「お、おい…」
神はヒカリに手を伸ばすが、ヒカリは石版に触れ、あっという間に姿を消した。
―意外とあっけなかった気が、しなくもないが…
別段、過度に特別な反応を期待していたわけではないが…
神は少々あっけなさすぎる展開に腕を組み、眉をひそめながら、ヒカリが今頃走り回っているであろう下界を見下ろす。
いつもそうだが、ヒカリはなぜわざわざ鉱山を登って此処までくるくせに、あんなにさっさと帰ってしまうのだろう。
「もう少しゆっくりしていけばいいものを…」
―わざわざ我がここまで一瞬で移動できるようにしてやったのに、あれを使ってここまできたのは片手で数えられる程度だ。
一日の時間は限られているのだから、我に会いにくるのならば石版を使ってくれば時間にも余裕ができるだろうに。
と、そこまで考えたところでふと神は思う。
山頂にくるまでの道のりには、珍しい鉱石や道具の改造にも使える金や銀などがある。
もしや、ヒカリは鉱山にくるのが本来の目的で、我に会うのはただのおまけなのではないか…と。
ヒカリの行動を見ていると、その可能性はなきにしろあらずだ。
「まさか…」
自分は神という、人間からみれば絶対的に崇高な存在であることには違いない。
だからこそ崇められこそすれ、ヒカリから恋愛の対象としてみられるというのは、やはり望みのないことなのであろうか。
下界の男たちは、ヒカリと同じ人間である。
しかし神は形こそ男ではあるが…本質は人間ではない。
―人間であるあいつらを、羨ましいと思うなんてな…
どうかしている。誰かに滑稽だと笑われても仕方ない。
しかし、ヒカリには傍らに居て欲しいと、そう願ってしまう。
くすくす…という笑い声が聞こえたかと思うと、岩陰から水の衣を羽織った女神が現れた。
「…見ていたのか。」
「えぇ。ほんの少しだけ。」
神にゆっくりと近づき、そばにある石垣にふわりと腰を下ろしてヒカリがいなくなった先をみる。
「あっさりといってしまいましたね。」
「…我は、ヒカリに想われてはおらぬのだろうか。」
「まぁ、なぜそんなことを思いますの?」
「我は神だ。神という存在としてはきっとヒカリからも愛されているのだろう。…が、我という存在をを愛しているのかどうかは…」
「ずいぶん難しいことをおっしゃいますのね。大丈夫。ヒカリさんはあなたのことを、あなたとしてを想っておられますよ。」
「それはまことか?」
すると、女神はとぼけたように「さぁ…」と首を傾げて、指先で小鳥と戯れる。
「どのように、とハッキリとはいえませんが。」
小鳥を空に優しく放ち、少しその行く先をみてから女神は神を見やる。
「きっとすぐにわかるでしょう。あなたがヒカリさんに大切に想われていることが。」
石垣から優雅に立ち上がり、思い出したように神を少し振り返る。
「ヒカリさんは優しい方です。あまり嫉妬なさらないであげてください。あなた様の荘厳なお顔つきで睨まれたら、ヒカリさんだって近づきがたい気持ちになってしまうかもしれませんよ?」
「う、うぅむ…気をつけよう。」
女神は慈愛にみちた表情で、胸元に両手を組み合わせ瞳を閉じ、
「それでは私は失礼します。」
空気に溶けるようにすぅっと姿を消した。
神は少し指で口元を押さえ、再び下界の方へと目をやる。
地を駆け回るヒカリの気配を感じ、その背を押すような優しい風をカスタネットの大地に吹かせた。
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